本文
役所の窓口は、いつも人間の熱を吸い取る色をしている。
柏木は書類を受け取り、淡々とページをめくった。
法人の代表者は存在している。住所もある。だが、生活の匂いがしない。
「住んでいる」だけで、「生きていない」。
相棒が小声で言う。
「本人、会えるか?」
「会える。でも会っても、たぶん“本人”には会えない」
柏木は知っている。
名義を貸した人間の目は、だいたい同じだ。
罪悪感で濁っているか、恐怖で乾いているか。——どちらにせよ、言葉が遅れる。
数日後。郊外のアパート。
呼び鈴を押すと、しばらくして扉が少しだけ開いた。
「……何の用ですか」
若い男。髪は整っているのに、目が整っていない。
柏木は名刺を出さない。出した瞬間、彼は“役割”に逃げる。
「あなたの名前が、会社の書類に出てきました。困ってる人がいます」
男の喉が鳴った。
「……俺、何もしてないです」
「“何もしてない”のが問題なんです。何もしてないのに、あなたの名前で会社が動いている」
男は、扉を閉めようとした。
その瞬間、柏木は一歩だけ前へ出た。
「紹介者の一人が、いなくなりかけてる。——あなたが黙っていると、その人に全部かぶる」
それは脅しではなく、現実の説明だった。
現実の説明は、脅しより効く。
男は目を伏せた。
「……俺、頼まれて……名前貸しただけで……」
「“貸しただけ”で会社は生まれる。会社が生まれたら、金が動く。金が動いたら、人が傷つく」
柏木は、ゆっくり言葉を置いた。
正義ではなく、因果として置いた。
男は、部屋の奥へ消え、封筒を持って戻ってきた。
中には、いくつかの書類。控え。メモ。——そして、スマホの画面のスクショ。
スクショには、指示が並んでいた。
短い言葉。期限。確認。評価。
人を動かすための、最小限の刃。
「この人が……“上”です。名前は……知らない。会ったのも一回だけ」
そう言う男の声は、かすれていた。
会ったのが一回でも、人生は壊せる。だから詐欺は軽い顔で行われる。
柏木はスクショの端に写り込んだアイコンを見た。
“企業ロゴ”のような丸いマーク。しかし検索に引っかからない。
作られたロゴだ。作られた安心だ。
——でも、作った手は残る。残った手を掴めば、空は落ちる。