柏木聡美 事件録|CASE 01

第4話「名義の回廊」

名義は“人格”じゃない。役割だ。

本文

 役所の窓口は、いつも人間の熱を吸い取る色をしている。
 柏木は書類を受け取り、淡々とページをめくった。

 法人の代表者は存在している。住所もある。だが、生活の匂いがしない。
 「住んでいる」だけで、「生きていない」。

 相棒が小声で言う。
「本人、会えるか?」

「会える。でも会っても、たぶん“本人”には会えない」

 柏木は知っている。
 名義を貸した人間の目は、だいたい同じだ。
 罪悪感で濁っているか、恐怖で乾いているか。——どちらにせよ、言葉が遅れる。

 数日後。郊外のアパート。
 呼び鈴を押すと、しばらくして扉が少しだけ開いた。

「……何の用ですか」

 若い男。髪は整っているのに、目が整っていない。
 柏木は名刺を出さない。出した瞬間、彼は“役割”に逃げる。

「あなたの名前が、会社の書類に出てきました。困ってる人がいます」

 男の喉が鳴った。
「……俺、何もしてないです」

「“何もしてない”のが問題なんです。何もしてないのに、あなたの名前で会社が動いている」

 男は、扉を閉めようとした。
 その瞬間、柏木は一歩だけ前へ出た。

「紹介者の一人が、いなくなりかけてる。——あなたが黙っていると、その人に全部かぶる」

 それは脅しではなく、現実の説明だった。
 現実の説明は、脅しより効く。

 男は目を伏せた。
「……俺、頼まれて……名前貸しただけで……」

「“貸しただけ”で会社は生まれる。会社が生まれたら、金が動く。金が動いたら、人が傷つく」

 柏木は、ゆっくり言葉を置いた。
 正義ではなく、因果として置いた。

 男は、部屋の奥へ消え、封筒を持って戻ってきた。
 中には、いくつかの書類。控え。メモ。——そして、スマホの画面のスクショ。

 スクショには、指示が並んでいた。
 短い言葉。期限。確認。評価。
 人を動かすための、最小限の刃。

「この人が……“上”です。名前は……知らない。会ったのも一回だけ」

 そう言う男の声は、かすれていた。
 会ったのが一回でも、人生は壊せる。だから詐欺は軽い顔で行われる。

 柏木はスクショの端に写り込んだアイコンを見た。
 “企業ロゴ”のような丸いマーク。しかし検索に引っかからない。
 作られたロゴだ。作られた安心だ。
 ——でも、作った手は残る。残った手を掴めば、空は落ちる。